我々は、本質において、霊的存在である。
現に、ほとんどの人は、神霊的なものの実在を当然のものとして確信している。諺にいう「火を見るよりも明らか」どころではない。「見えなくとも、明らか」なのだ。この事は、何らの教育なくして常識以前の常識になっている。大人から子どもまで、神や霊的なことばかりを考え、話している(ただし、このことに無自覚な人は非常に多い)。
時々、頑なに神や霊界は実在しないというような人や、物質しか存在しないというような偏った思想の人もいる。が、そういう人も、大抵その言葉の表現や形式を拒絶しているだけだ。事実、その同じ口で神霊的なことばかりを話し、愛に生き、死者を弔う。他愛もない。
このように、本質的に霊的存在である我々だが、同時に、体的存在でもある。この世にこうしてある形式を持っている。我々は、この大地にも生きている。ここでは、大地の理に従わなければならない代わりに、天国の門も地獄への道も開かれている。不自由ならではの本質的自由が、ここにある。
ここで、大拙の「日本的霊性的自覚」(鈴木大拙「日本的霊性」岩波文庫)と接続する。天にも地にも生きる我々が、神仏の光の中にこの身を投げ入れることができるのであれば、その光に包まれているという自覚があるのであれば、そこから祈りが出てくる。光のあるここは、天国で極楽で浄土である。光のないところが、地獄である。
現に霊的であり体的存在でもある我々は、霊のみでも体のみでも生きていくことはできない。善悪混淆といってもよいだろう。霊でもあり体でもあるからこそ、チカラ(力)が出るのだ。
「光のある、力」。
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