損得

信仰覚書

さび腐り 失せゆく宝何かあらむ 誠の宝を神国に積まばや
(大本讃美歌 第百十八-四)

何を棄てておいても、みたま磨きが第一番なのだ。これは末代のことであって、おくれるほど、長くみたまが苦しまねばならぬのである。
われ一代のことばかり考えてコセついているから、どもならぬ。物質的の損得などというものは、みたまのそれに比すれば実に小さい問題だ。
(信仰覚書 第八巻)

我々は、自身が真に価値あるとか良いと感じられるもの…つまり本質(霊)のためにこそ生きている。少なくとも、そうでありたいと思っているはずだ。物質(体)そのもののために生きているわけではない。心底から価値がある、よいと思うそのことをこの世で体現するためには物質的な基盤が必要だが、その逆ではない。「物質や情報をたくさん集める」とか「様々な取引で得をする」ことや、技能そのものに本質的価値はない。価値を現わすために活用できるのなら結構なことだが、単に「この世」限りの失せゆくものを無暗に集めても仕方がない。まして、そのことの為に人生の時間や意識の大半を取られるのなら、まさに本末転倒ということになる。
世の多くは、このことに気付かないように…いや、思い出さないようにするためにアレコレと考え・悩みなどしているのではないかと思うこともある。

「信仰することで、どんなよいことがあるの?何か得するの?」「神さまがご飯を食べさせてくれるの?」と疑問を投げかける人もいるかもしれない。その時、大抵「よいこと」や「得」を物質的・体的な次元に限定している。「よいこと」とは、自らが真に価値ある・良いと思う本質的なことだった。すると、彼は次元の限定により価値を忘れていることになる。得すること、ご飯を食べられること自体は結構だが、それは何のためだったか?

霊的・本質的に得たものは永続性があり、物質的・体的なものはそうではない。これは、言葉の定義により当然のことを言っているまでだ。従って「みたま磨き」が一番であるのも当然だ。大本の教えにおいても「あの世」にまで持っていけるのは、こうしたところだという。
…といって「この世」も、その本質においては「あの世」でもあると思うのだが。

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