理解できる。ゆえに感じ取ることができない(その1)

 本ブログは個人的な日記なので、折に触れて省察的に思ったまま感じたままを自由に書こうと考えていた。特に、朝夕の祈りやその後の拝読、鎮魂時に感じたものを記していこうと考えていた。

 ところが、いざ書こうとしてみると、それでは誰にも理解できないものになりそうだ。私的な日記ではなく、不特定多数(特に多くは大本信徒以外)に公開するものでもあるのだから、自分にしか分からない物を書いても仕方ない…と気がついた。

 …というわけで、読者の存在を意識しつつ書いていこうと思う。といって、あまり書き方を考えていると何ヶ月も書けそうにないので、細かい書き方や内容はやりながら考えて行こうと思う。

 ○「ご神諭について」

 ブログ開始日の9月8日の朝拝後に三代教主補出口日出麿先生の若かりし頃の日記「信仰覚書」の第8巻「ご神諭について」を拝読した。記念すべきブログ開始日の拝読箇所ということもあり、当日に書こうとした。その時には丁寧で基本的な説明から「ですます調」で書こうとしたが、どうも気が乗らずに下書きのままにしておいた。

 前置きが長くなった。ともかく不特定多数への公開を意識しながら、考えたことや感じたことを率直に書いていこうと思う。

 さて、拝読箇所の内容としては、大本神諭は「神界のことが書いてある」もので、「裏おもて両方が書いてある」「数多く読めば読むほど迷路にはいったような気になる」「神諭の中でほめられているのが悪魔やら、叱られているのが真の仕組の人なのやら」大いに考えねばならぬ…というものだった。

○大本神諭の簡単な説明

 大本神諭を簡単に説明すると、大本の根本教典の一つであり、神さまからの直接の教えだ。文字を書くことができない開祖出口直が、神さまからの自動書記によってひらがなを中心に書いた「お筆先」と呼ばれるものの一部に、もう1人の教祖「聖師」出口王仁三郎が漢字を当てたものだ。その事でかなり読みやすくなっている上に、決して学術論文のような難解さはない。神さまから直接に語りかけられているようにすら感じられるようなものだ。

○「大本神諭」を理解できるか?

 日出麿先生が「迷路」と表現されたこの「大本神諭」は、色々と理屈で批判的(クリティカル)に考えようとする生意気な私でも決して簡単に(というか、簡単でなくても)理解できるものではないという深い実感がある。

 正確に言うなら、文字を追って考えて主張?を一つの思想としてまとめていく事なら、できるのかもしれない。実際、思想や宗教としての大本が学者などから解説的に語られる場合にはそのようにまとめられている。大本信徒でそのような物に興味がある人は少ないように感じるけれども、私はそれはそれで一つの価値のある仕事だと思う。興味深く読ませていただいている。

 しかし、信仰者の実感としては、そのようなやり方には致命的な問題があるように思う。何か?それでは理解できないのだ。もう少し丁寧に(?)いうなら、その方法では「理解できてしまう。ゆえに、感じ取ることができない」とでも言うようなものだろうと思う。

 (次回へ続く)

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました