愛あっての智

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 (天祥地瑞)天降地上~天任地命~神嘉言で「愛あっての智」という直感的な気付きを書いた。これはどういうことかを考えてみる。

 まず、大前提として共通理解をしておきたいことがある。
 真神の本質は愛と智であり、日と月であり、熱と光である。現に、我々はそれにより生かされ、直覚さとることができるようになる。つまり、すべては、真神の愛の熱と智の光のおかげであるということだ。
 このことは、表現の違いはあれども、古今東西の先哲や宗教の示唆するところでもある。しかも、教義教説の言葉である故に信じるとか、ましてや比喩として現界的に捉え直すようなものではない。霊的な事実だ。論理では理解できない一方、真の「我」としては誰もが実感として直覚ることができるはずだ。

 さて、そのうえで「愛あっての智」という直感はどういう意味なのかを考えてみる。
 まず、本質・霊的なレベル。先に書いたように、真神の愛が我々の生命の源である。ならば「我」のすべての活動はこの「愛」に根差すものしかあり得ない。その(愛による)活動に応じて、智の光に照らされることになるということではないか。いずれにしても、その愛も智も、すべては神さまのおかげであるという事は、重ねて強調しておきたい。
 次に、これを現界的なレベルに繋げて考えてみる。祈り・拝読・鎮魂等を通じて、真の「我」の動機(=愛に基づく)による活動を肉体としての吾が為そうとするとき、智の光で照らしていただけるのではないか。逆に、真の我としての動機を拒否して、活動をしないなら、照らされない。まして、強いて肉体の吾としての動機を優先するならば、必然によって智の光から遠ざかる…ということにもなるだろう。実際、自他を観察してみても、そのようである。

〇 

 ここまで書いたうえで、夕拝をした。
 拝読した「信仰覚書(第八巻)」より。
 「師あり書ありて知るは、一般の人のことなり。
 師なく、書なくして悟るは真人なり。
 真人にあらざれば世を率いることあたわず。」

 「宇宙はすなわち大学なり
 無限の書を蔵し
 無窮の理をふくむ
 これを読む これを悟る
 これ真の学問なり」

「真に心虚にして身清なれば、なさんと欲することをなして大過なし。
ことごとに良心にうったえ、直日に省みるは、これ未だ心身清浄ならずして、雑霊、雑物を蔵せる間のことなり。」
 
 また、夕拝時の大本讃美歌第八十七(霊界物語61巻)より
 「常闇の 世に住む人も皇神の 光にこころ照らされ栄ゆる」
 「天津風に 心の塵もはらはれて 清き身魂とよみがへるなり」
 「わが罪を 悔ゆる心は皇神の 依さしたまひし御賜物なり」

 (追記)朝拝時 大本讃美歌第四十八(霊界物語61巻)より
 「1.天津御光かがやきて 暗きこの世を守りまし
 罪になやみし身魂をば 照らさせ給ふぞかしこけれ
 2.天津御光うくるわれ やみをも知らぬ身となりぬ
 尽きぬ恵みは心の空に 月日となりてかがやきぬ
 3.天津御光にあひそむき 罪におぼれし人草の
 栄光の花のひらくべき あふげ月日の御姿を」

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