「何が嬉しいといって、同じようなみたまが同じ所へあつまった時ほど嬉しいものはない」『信仰覚書第8巻』
「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」『論語』
暇さえあれば(なくても)読書をしている。劇的な変化があり、古今東西の名著をこれまでと比較にならないほど広く深く理解できるようになった。人は理解できるものしか理解できない。つまり、理解できるようになったから、理解できるようになった。すると、今まで見えなかったものが見えてくる。今まで会えなかった人とも会うことができるようになる。
中でも、特筆すべきは鈴木大拙。理知分別的に読んでいたころには、難解だった。それが、大拙風に言うのであれば霊性・無心・無分別等々、このブログの文脈なら「吾」ではなく「我」…表現は何でも良いのだが、その方からみるならば、ことごとく実に不可思議でいてあたりまえでほんとうのことだった。例えば「霊性は分別せぬ。もしするとすれば、それは無分別の分別である」…体験がある人には、直ちに明確に分かるはずだ。その他にも、符合に次ぐ符合。私がここに書こうと下書きしたことが、ほとんどそのままに書かれていることもあった。
思わず出た言葉「彼は、私だ」。
遠い昔に離れてしまった仲間と、親友と再会できたような深い喜びを感じた。
話は変わるが、「万教同根」の不思議さと喜びも深く味わうことを得た。彼は仏教の人だと思われているだろうし、私は大本に救われてきた。しかし、分別的にこれを論じている限り、仕様がない。要するに、万教同根は、互いの教えを尊重し合おう…などという論理でも倫理でも相対化でもない。そうではなく、単にそれが当たり前のことだったと気付くことだったのだ。ゆえに、尊重し合うことも良いだろうし、倫理にかなうことにもなるのだ。
話を戻そう。氏の般若の高さを知る者ならば、氏の悲心の深さも直ちに感じ取らざるを得ない。氏が天才だったかどうかは宗教的な…つまり、本質的な問題にはならない。なぜ天才だったのか。なぜあのようだったのか。そこにこそ、出会いの喜びと共に、胸にこみ上げてくるものがある。
ここに至り、霊界物語を拝読するならば…感涙しない人は、世界に一人もいないはずだ。もし、氏が霊界物語を拝読したのなら、感涙しただろうか?投げ捨てただろうか?
…その両方だろう。
「無分別の世界において、真に尊いものは?」という極めて矛盾した問いをするなら?
「太陽と月」。
無論、その後は、そのままに捉えられたら困るという注釈が長く続くだろうが。
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