改心をめぐる対話

 「改心」は、大本神諭のキーワードといってよいほどに何度も出てくる言葉だ。神さまは、何度も何度も「改心」を求めてこられる。そんな改心をめぐる対話。
 
 〇改心をめぐる対話

 「大本では、何をもって改心というのか」「というか、改心改心言われても、よく分からない」「そもそも、具体的に何が善で何が悪かを示してほしい」「改心できるならしたいのだが、どうすれば改心できるのか」「改心ができたとは何を基準に判断すればよいのか」
-どうしてそうした問いが出てくるのだろうか?それは、誰の誰に対する問いなのか?
あなたは、何を善いと思うのか?あなたは、何を改心だと思うのか?
 あなたは分からないことを前提として聞くが、なぜ分からないことが分かるのか?分からないといえるということは、すなわち分かっているということなのだが…。

 「意味不明だ」「分かりやすく教えてほしい」「分からないから分からないと聞いているだけだ」 -分かりやすくとはどういうことなのか?分からないとはどういう意なのか?逆にこちらが聞きたい。  

 「そういうよく分からないのはもういいから、早く定義的なものを出してくれ」
-だから、あなたはなぜそれを聞きたいのか?

 「そりゃあ、知りたいからだよ。もしかしたら、なんかの参考になるかもしれないし…」
-定義的なものを出せば、分かるのだろうか?そして、それを知る事で参考になるとはどういうことなのか?

 「分かるかもしれないじゃないか!参考になるっていうのは、なんかの役に立つかもしれないってことだ!当たり前だろ!なんなんだよ、さっきから!」
-…「霊界物語」を拝読したらどうだろうか?研究ではなく、拝読だ。祈り・拝読・鎮魂。この三つをして後悔したことはない。間違いなく良い体験になる。これは体験的にお勧めできるものだ。

 「話を逸らすな。あんな長いものを読めと言われても困るわ」「論より証拠で判断するから、とりあえず、改心に関する何かを教えてくれ」
-そういえば、今日の朝拝時「信仰覚書」に改心について書いてあった。その一部をお伝えしようか?あなたが求めているものかは分からないが…。

 「はじめから、伝えてくれ。こっちは暇じゃないんだから」
改心ということは、真に自己を知ることである。すなわち、みたまの因縁性来を自覚することである。これさえ分かれば、人を羨んだり、妬んだり、恨んだりすることはいらない。各人それぞれに天から与えられた職分があって、それに従って十分努力さえしたならば、どんな人でも、他の追従を許さないだけの「偉いところ」があるのである(後略)(『信仰覚書第八巻』)

 「抽象的過ぎてよく分からない…真に自己を知るの定義は?」「みたまの因縁性来とはなんなのか」
-今、あなたが求めていた「定義(改心=真に自己を知ること)」が明確になされた。にもかかわらず、また定義を求める。それは、なぜなのか?どうしてそれを繰り返したいのか?

 「うーん…じゃあ、意味の分からん定義も教えの抜粋も要らないから、お前個人の意見を聞かせてくれよ」
-私の意見…?だから、祈り・拝読・鎮魂を…

 「…いや、だから、お前の意見というのは、要するに、お前なりの解釈を教えてほしいんだ。解釈や分かりやすい解説をしてくれ。本当に言葉が通じない男だな…」
-解釈?解説?今朝、これを拝読したときに、実に自然に腑に落ちた。つまりは、書いてある通りそのままだ。解釈も何もない。
 それでいて、体験してきたことや考えていたことが繋がる感動を覚えたよ。信仰覚書は不思議なもので、もう何十回も拝読しているはずなのに、その時々に自分が直面しているものに関してのインスピレーションのキッカケになることが多い。本当にその度に感動があるよ。
 こうした体験は話せるが、それはあなたの言う解釈や解説とは違うのだろう。あなたはあなたで拝読して体験をするしかないと思うよ。

 「書いてある通り?じゃあ聞くが、改心というのは、要するに悪い心を改めることだろ?それが、どうして真に自己を知るとかなんとかになるのか?俺には、まったく理解できないね。まったく論理が飛躍している。この飛躍を、おまえ自身はどう思っているのだ!」
-論理の飛躍?A=B=C→D…という非常に論理的な文章だ。論理の話ではなく、あなたが納得できないだけなのじゃないか?では、なぜあなたは納得できないのか?なぜ、どこに、どのような違和感を感じるのか?そして「真に自己を知る」…つまり、自己(あなた)とは?これについて、あなたはどう思うのか?これこそが重要なのではないか。

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