〇自我実現主義
(覚書)なしたき時に、なしたきようになせ!では「(神の生宮たる)本来の自分を存分に発揮せよ」と書いた。一般的な言葉にするのなら、自己実現だとかそういったものだ。
この「自己実現」という言葉は、どうやら1990年代頃に定着したようだ。この言葉を聞くと、私などはマズローの欲求説が思い出されるが、辞書的にはトマス・ヒル・グリーン(1836-1882)の「自我実現(self-realization )」論が出てくる。この説は、明治から戦前の哲学・倫理学方面から日本思想界にも影響していたようだ。
(参考:日本語「自己実現」の歴史的原点についての実証研究)
「霊界物語(第一巻)」でも「(前略)それで此の天賦の本質なる、智、愛、勇、親を開発し、実現するのが人生の本分である。これを善悪の標準論よりみれば、自我実現主義とでもいふべきか」とある。「善悪の標準論」とは、まさに倫理学それだろう。恐らく、出口王仁三郎聖師(以下王仁師)は何らかの形でグリーン説を参照していたと考えてよいだろう。
〇「自己実現」という表現の不思議さ
さて、一般に使われるようになっている「自己実現」という言葉は、モノを考える人ならば、少なからぬ違和感があるのではないだろうか。例えば「自己」を「実現」をしようとしているのは、いったい「誰」なのだろうか?それも「自己」なのだろうか?
「実現しよう」としているという事は、その来るべき「自己」のゴールや方向性を、「私」は「知っている」ということになる。「知っている」だけでなく、それを「実現」しようとしているのも「私」なのだ。だが、なぜか今はまだ「自己」を実現できていない。だからこそ「自己実現を求める」のだろう。しかも、その判断しているのも「自己」である。
この、論理的には非常に奇妙な言葉を、不思議に思わない…つまりなんとなく自然に感じることができる人が多いことこそが、実に不思議なことだ。
〇「自我実現」と「自己実現」
グリーン氏の説は、先の論文に従って一言にするなら「神聖なる存在が個々人の意識を媒介として自ら実現していく」という文脈だ。
本当は、これをこのまま言えば良いのだろうが、いつの世でも、大衆は本質的なことやあるがままの真理からは逃げ、自縄自縛に陥りたいという欲求があるのだろう。そうした要素を取り除いた最も表層的な意味合いに修正されていく。「自我」とは、自己の理想としての特別な自己であり「自己が自我へと実現すること」が一般善であり、その自我の実現は社会において実現される…という風に、当初のグリーン説から逸脱していった。
その代わりに、今の自己実現に至るまで、一般に広まったのかもしれない。
実際のところ、今の社会において広まっているのがこの「自己実現」だろう。つまり、社会においてある「役割」を担うことこそが、イコール個人の「夢」や「理想(なりたい自分)」と紐づけられて「自己実現」になるというよう文脈。例えば「将来の夢は、〇〇(特定の職業)になりたいです」というような言葉を、大人が子どもに言わせて目を細めるようなアレだ。
当の大人たちには悪意はないのだろうが、「夢を叶えた理想の自己」=「特定の職業」という風に…つまりは「自己」を行動・言動・物質レベルに規定することを強いていることに気付かないような「大人」に、感受性の強い子どもたちが言い知れぬ反発や不信感を持つのも必然だろう。
また、仮に「ある役割」をもって「自己実現」を達成したはずの大人にしても、その「職業」などはある種の歯車でありコモディティに過ぎないことを感じるならば、砂上の楼閣であったことに気付くだろう。彼らは「AIに奪われる職業」などの特集をみては戦々恐々する。
仮に無事定年まで逃げ切れたとしても、その「役割」を失った場合に「自己」はどうなるのか?「退職後のアイデンティティの危機」などが真面目に議論されるが、これは無常必然の結末だろう。
…ともかく、こうした経緯を考えるならば、聖師の参照した説は、あくまでもグリーン氏の本来の説ではないかと思われる。訳語としては「自我実現」が最も適切だろう。
〇王仁師の「自我実現」
さて、王仁師は先に挙げたように「天賦の本質なる、智、愛、勇、親」の開発・実現を前提としての「自我実現」としている。これは、肉体的な意味での「自己」ではなく、本質…つまり霊的な意味合いにおいての「自己(自我)」を指しているといえるだろう。
分かりやすさのために、いつもの階層モデルでいうと、世間一般の「自己実現」なるものはa(特定の職業云々等物質的・行動的側面)のみに着目するような「社会的実現」に過ぎない。つまり「自己とは、この肉体とその社会的な役割である」と定義するようなものだ。
(参考)
a.物質的事象
b.心理的事象(aの原因)
c.心理的事象の原因(bの原因)
d.cの原因
e.dの…
…∞の原因の原因
王仁師も「自分」をaと、より深いものに分けている。曰く「我と云ふ事は霊的に見た自分、宇宙と合致したる自分。自己の肉体をさして吾と云ふ」(『水鏡』)。つまり「自我実現」とは、霊的であり宇宙と合致したる自分を「実現」するという意味になるだろう。
「実現」とは、現実化することだろう。
つまりは「霊的な(宇宙と合致したる)自分をこの現界的に顕す」ことが王仁師のいう「自我実現」ということになるのではないか。
さて、「霊的に見た自分=宇宙と合致したる自分」とサラッと言っている(これは文字通り王仁師の言葉を書き留めた如是我聞である)。ここで、なぜ「霊的」にみる自分が「宇宙と合致」することになるのか?という疑問が湧く人もいるだろうか?
〇自我実現をねがう者
昔から、今回論じたような意味での「自我実現」を自分もしたいし、皆にもしてほしいという想いがなぜだか心底に一貫しているように思う。無論、それは善悪論ではない。ねがいである。
ところで、「自我実現」をしたいと自らにも欲するその者は、いったい誰なのだろうか?なぜなのだろうか?
コメント