大本のご祭神「大天主太神(もとつみおやすめおほかみ、または、おほもとすめおほみかみ)」。 直訳するなら、「もとのみおやの大神、究極大本の大神」とでもなるか。
古今東西──天之御中主大神、阿弥陀如来、ゴッド、天主……等の呼び名があっただろう。
どの名も、“それ”に向かおうとしてきた名なのだと思う。
今の私に、最も深く響いてくるのは、
「もとつみおやすめおほかみ」──この名である。
漢字にすれば、「大天主太神」、あるいは「元津御親皇大神」とも表せるだろう。
ある道の大先輩が語ってくれた言葉がある。
「大神様はね、親でもあるから…」
その言葉の意味が、今では腹の底から感じられる。
かつての私は、その名を、祝詞の一部として、あるいは頭の中の理解や情報として捉えていた。
「MOTOTSUMI-OYASUME-OOKAMI」という、よく意味の分からない音でしかなかった。
それが、あるときから変わった。
体験からだった。理屈ではない。情報でもない。
もし、霊の深みに触れるということがあるなら──
そのとき、この名が、音ではなく、「意味」として鳴ったのだ。
「元の──みおや──皇なる大神」。
音が意味へと変わり、名が祈りへと変わっていった。
この神は、大元霊であり、大原因であり、唯一にして無限の実在でもある。
私たちは、その働きの中で生かされている。
神熱と神光──神愛と神智。
ここに至ってようやく、はっきりと思う。
これは「理解」することではない。
「思い出す」ことなのだ。
──私たちは、元津御親皇大神の「子であり宮」であるということを。
──その光の中にあり、しかも、その光の一部でもあるということを。
──最終的には、すべてが大神のあらわれであるということを。
そして、それを思い出す場こそ、物質を基盤とし、制限があるがゆえに自由でもある──
「この世(現界)」という旅路の場なのだろう。
なぜなら、この世には「自由」があるからだ。
──「霊流」に沿って素直に生きることも、
──その流れに背を向けて生きることも、どちらもできてしまう。
だからこそ、「光を思い出す」ということは、単なる理解ではなく、新たな始まりとなる。
光に向かって進むのではない。
光の中に在ることを思い出し、
その光の中で生きていく。
その自覚こそが、
私たちの新たな道を開いていく。
私たちは、自由の中で──
祈るたびに、再び思い出す。
──自らが、光を受けていることを。
──その光の中に、今も在るということを。
──根本的に、すでに救われている存在であるということを。
次に、この光を感じたならば、
自然と次の段階──「分かち合い」──が生まれてくるだろう。
そのことについては、また別の機会に。
コメント