前回「真神の光熱を感じるに至り、本質的な孤独も怒りも消えてしまった」と書いた。この体験の詳細については、既に体験できている人には当然に分かるだろうが、体験できていない人や感じることができていない人には書いても決して理解できない。
従って、詳細ではなく、そこから体験的に感じられたことや、考えたことを書いてみる。
結論としては「すべては、真神に、そしてその熱と光、愛智に依る」。
我々もまた、本質または霊的には、その熱と光に照らされ生かされつつある。同時に、熱と光の一部でもある。まさに「人は神の子神の宮」。皆、本質において、救われている。真神の熱と光の歓喜の中に住している。
現界では、そうでもないように思われるだろう。故にこそ、自由があり、真に掴み得る機会でもある。
言葉にするなら、こんなところになる。しかし、体験なしには実感がなく、一つの世界観だとか「教え」として受け止めがちになる。これでは、もう一つのところが分からない。
分からなければ、迷う。自分とは?神とは?生とは?死とは?実在とは?分からない。
もっとも、分からずとも、強く信じることはできる(疑うとか考えるということも、実は信じることである)。
一方、体験的な実感があるなら「真神の熱と光」の一言で心身共に歓喜に満たされる。
思い出し、忘れないようにするのなら、現界(「この世」)にいながらも本質では真神の光熱の中・歓喜の中にいる大安心が得られる。
すべての人は、仮に肉体の自己として忘れているとしても、可能性として、本質において、このことを思い出すことができるはずだ。現に、皆、真神の熱と光に照らされている同朋兄弟なのだから。こうしたことが体験的に理解できると、本質的には孤独や怒りは無くなる。
また、現に、ある意味において人々は、日々「神」のことばかりを感じ、考え、語り合っている。自覚的であるかどうかは別として。
また、真神の熱と光に近づくほどに、霊的・本質的なことが自然と分かるようになってくる。物質的なものと異なり、霊的なレベルのことは、理解できるようになれば理解できる。
逆に、霊的に分からないことは、絶対に分からない。
「霊主体従」の法則が極めて強いようだ。
今のところ、こんなところを感じつつある。まだ感じ始めのところで、日々新たな気付きがある。ただ、以前とは比較にならないほどに、根本的・本質的な安心がある。歓喜がある。
人それぞれに、夢や希望・目標というものがあるだろう。物質的なもの、行動上のもの、社会的なもの、そして精神的なもの、霊的なもの…いろいろな夢があるだろう。
自分は、真神の熱と光を思い出すに至り、夢が叶っていることに気が付いた。
数十年の信仰のみならず、あらゆる体験、苦難もすべてが、今や有難いものであったと感じる。
といって、ここは始まりであって、ようやく本来の我、「人(霊止)」としてそれなりになりつつあるところだ。ここからどうなるかは、惟神。
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