少し時があいてしまった。この間にも、色々と大きな気付きがあった。内容はまた後々書いていくとして、このところの旅の経緯を書いてみよう。
以前も書いたことだが、ある時、突如としてある霊性・霊覚が開かれた。その時、ちょうど難解に感じていた鈴木大拙の著作が一気に・本質的に理解された。それ以来、古今東西の賢哲の著作を手当たり次第に読み進めてきた。学びというだけでなく、その開かれたものの確認のためでもあった。様々なものが腑に落ち、確認が取れ、それまでとは全く別次元の深い理解が進んできた。
「朋有り遠方より来る、亦た楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや」(孔子「論語」)
その後、必然的に生じるトレードオフが生じてきた。
霊性的・本質的なものへの学びが一気に深まっていく喜びと、それによって先の時代(「遠方」)の賢哲(「朋」)らと交流できるようになっていくことは、孔子先生の仰るように、実に楽しく満たされることだった。だが、それは必然的に、世人との乖離が著しく大きくなっていくことでもあった。皆がいかに理解できていないかが分かるようになってしまったのである。
そして、孔子先生のように、世人が理解できないことを慍まない(怒らない)境地には、なかなかに至ることができなかった。その時の孤独、そして怒り。人間としては、実に苦しいものがあった。
まさに「苦楽不二」という状況だった。といって、学びの歩みを止めようと思ったことは、一度たりともなかった。
その後、真神の光熱を感じる(※)に至り、本質的な孤独も怒りも消えてしまった。※については、今後の主要なテーマとなるだろう。
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