「無」について

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「無」

-最も浅い、体的レベルでの理解は、有に対する無。相対としての無。有の欠けたものとしての無となる。

一方、宗教的・霊性的なレベルでは、当然…といってよいだろう…そのような相対的な捉え方にはならない。そこから素直に言うのなら無とは「絶対」や「普遍」の別名といってよいだろう。あるいは「神」「道」「空」…等。それでいて、どの言葉でも示すことはできない。ここで、大拙の「神は神ではない。ゆえに神である」というような表現・論理が有効になる。
こうしたところは、宗教的な在り方の基本といったところではないかと思う。

ところで、王仁師は、以下のように示している。

と云ふ事は言霊学上、といふ事である」

我の境と云ふ事は、地の神と融合したる状態である。欲望もなく、怨恨もなく、好きもなく嫌ひもなく、自分もなく人もく、神の懐にとけいつて、神は我なり我は神なり、神人一如の境地に立つた場合を我の境と云ふのである」(水鏡)

すなわち「無我」とは「天我」となる。この状態では「自分もなく人も無く」「神は我なり我は神なり」という「神人一如」の状態という。

禅の無心・無念だとか、無位の真人というのも同様の文脈だろう。
浄土系の言う、ただ一度の「ナムアミダブツ」で救われるというのも、この文脈で解するなら、当たり前のことだと納得できるだろう。無我での「ナムアミダブツ」は、南無阿弥陀仏と一如としてのそれなのだから。
大本を含めて神道系でいうなら、無我・無心でのただ一度の「かむながらたまちはへませ」ということになる。
どちらにしても、表現としては宗教的には「他力」的なものである。しかし、無我の状態においては、他力は他力ではない…となる。

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