(信仰覚書)学や知恵ではアカンということ

信仰覚書

 グズグズと小むずかしい理屈をいうよりは、手っとり早く「汝のしたいようにせよ」と教える方がよい。
 教育で人間が造れるものではない。といって、克己は絶対に不要かというに、決してそんなことはない。克己せねばならぬ時もあるし、する必要のない時もある。
 しかしこんなことは、各自の守護神がそれぞれわきまえているべきもので、肉体は要するに、その時々の守護神の指示通りにーーーたとえ肉体の理智には、多少の不服がましいことがある場合でもーーー従ってさえおればよいのだ。それを、肉体の理智ではばむから、霊肉一致がうまくゆかないで苦しんでいる場合の方がズンと近代は多い。
 学や知恵ではアカンというのは、ここのことを言うているのだ。
 (中略)
 善というも悪というも、ただその時、その場所によってのことである。
 ものに絶対は決してない。

信仰覚書 第八巻 p242

 何が善く、何が悪いのか?その普遍…つまり、どんな時にでも言える善悪や真理とはなんだろうか?
 古今東西、このことを考える人は数多いた。が、それを考えに考え抜いたところで、単に一つの相対的な哲学や思想…もっといえば「意見」にたどり着くのみだ。「意見」には、その定義により、正解も不正解もない。同意する人が多いからといって、真理であるともいえない。いかに様々な思想や学術的な文献を深く調べたからといって、善悪を担保するものでもない。

 普遍的・絶対的善悪が分からないなら、どうしたらよいのか?---「汝のしたいようにせよ」。
 ここでいう「汝」とは、「(その時々の各自の)守護神の指示通りに」従っているところの「肉体でもある汝」である。
 ここでの「守護神」。大本でいう「本守護神」とか「本霊」。臨済(宗)ならば「無位の真人」だとか、鈴木大拙ならば「真実の内奥の自己」だとか、そういったものと近いものと思う。このブログでは、シンプルに「我」と書いてきた。
 ともかく、本守護神(霊)に肉体(吾)が従う。大本でいう「霊主体従」での「霊肉一致」。広く言うならキリスト教の「放念」だとか浄土の方の在り方にも繋がってくるだろう。一般的な言葉でいうなら「良心に従う」。
 「たとえ肉体の理智には、多少の不服がましいことがある場合でも」「守護神の指示通りに従えばよい」など、体験的リアリティがある。こうしたところを、単なる比喩だとか偉い人のかくあるべしという「教え」だとか、ましてや「方便」としてしか捉えられない間は、どこまでも「肉体」の理性での話や知識に過ぎない。体験がないから、思想として理解しようとするのだ。「自分」が分かるようになれば、ありのままの日常的・体験的事実であることが分かるはずだ。
 この辺りのところを、大本の教え以外で最もシンプルかつ的確に表現していると思われる老子の名文を挙げておく。

道可道、非常道。名可名、非常名。無名、天地之始。有名、萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
(訓読)
道の道とす可きは、常の道に非ず。名の名とす可きは、常の名に非ず。名無きは天地の始め、名有るは万物の母。故に、常に欲無くして以て其の妙を観、常に欲有りて以て其の徼を観る。此の両者は同じきより出でて而も名を異にす。同じきを之を玄と謂う。玄の又た玄、衆妙の門。

老子(岩波文庫)

 

 さて、「学や知恵」は、肉体的の理智である。それはどこまで行っても、浅い(霊に対して体的な)世界だ。その分だけこの世においては物質(体)的な力を持つ。物質的な欲や思考(体)に囚われ、例えば学や知恵で何かをhackすることが目的化するなら「霊主体従」ではなく「体主霊従」や「力主体霊」という風に順序が変わる。
 その時「その時々の守護神の指示」即ち「真にしたいこと」「真に善いと思うこと」よりも、別のものを優先することになる。必然、真に善いと思うように生きることができなくなる。ここに、トレードオフがある。ほとんど同義反復のようにみえるだろうが、こうしてみると、実に当たり前のことだと分かる。

 霊肉不一致、体主霊従の在り方が「大本教義や古今東西の聖人偉人の教えに反するからダメだ」などというのではない。現に苦しく、辛いだろうというのだ。
 一方、霊主体従に霊肉一致さえしているなら、もうすでにそこは天国浄土である。毎日、腹から湧きだしてくる感謝と様々な歓喜に満ちているはずだ。
 その時にこそ、霊を体として現わすためにこそ、学や知恵も生きてくるだろう。

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