1.さまざまの 世の誘いに打ち勝ちて 清き大道を進ませたまへ
大本讃美歌 第107-110より筆者選
2.見わたせば 野にも山にも皇神の 恵みの花は咲きみちてあり
3.浮世さへ さながら神世の心地せり 神にまかせしわが身わが魂
4.かむながら 任し切つたる心には 神の栄光をおのづから見む
5.われもなく 現世もなくただ一人 神の御前に平伏しをがまむ
6.ひたすらに 神にしたがふ現身の その歓喜は底ひ知られじ
7.わが教主の 仁慈大徳さとりなば 幸いの花たちまち開かむ
8.幸おほき 生業なりとも皇神の 御許しなくばわれはなすまじ
9.皇神と 共にありせばいかならむ なやみに遭ふも苦しからまじ
10.大空をわたる日影にまさるべし 心に充てる神のひかりは
以前は、それほど心に響かず、なんとなく歌っていた「大本讃美歌」だった。それが今では、もう本当に我が心底を歌ってくれている…と感じることが多くなった。
「ひたすらに 神にしたがふ現身の その歓喜は底ひ知られじ」。心底から、魂が躍動するような喜びが下腹から込み上げて全身に広がってくる。ただ、この美しい世界をつくった無限絶対無始無終の真神の熱と光への歓喜あるのみ。
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神さまの熱と光をどれだけ受けられるか。これによって歓喜の度合いは変わるのだろう。それをどれだけ受けられるようになるかが、ある意味で、この世の修行と言えるのかもしれない。修行?自分で書いておいてなんだが、歓喜を受ける修行というのも、なんとも変な話だ。歓喜ならば、素直に受けられるだけ受ければよいだけのものを。これを素直に受けられるのは、古今東西の宗教でいわれる「赤子の心」ということになるのだろう。
しかし、事実、歓喜から逃げようとする自分もいるのだ。単純な話、いかに心底からよろこびを感じる活動でも、肉体的には「疲れる」という面がある。そして、疲れることはできるだけ避けたい。これも肉体としての自分のホントウである。苦中楽あり、楽中苦あり。
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いずれを主とし、基準とするか?
浅い物質的・肉体的・外形的な「自分(吾)」を主・基準とするのなら、その欲求も判断基準も、体的・物的なものが基準になる。それは純粋なものではない。無常のものだ。欲求の果てに得られたと思ったその外形的のものは、いずれ喪失することだけが唯一確実に言えることだ。
従って、どこまでも安心などはない。腹の底からの精神(霊)的歓喜もない。一時の肉体的興奮と充足があるのみ。
より深い、霊的な真の自己(霊止、一霊四魂)としての深奥からくるものを主・基準とするのなら、その欲求も判断基準も、より霊的なものが基準になる。必然、純粋になる。永遠のものだ。欲求の果てに得られた霊的な資産は、喪失することない。
従って真の安心がある。腹の底からの、本質的かつ永続的な歓喜がある。
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この世においては、霊・体いずれも大切である。いずれに偏しても真に生きることはできない。「霊五体五」「霊体一致」である。ただし、主はどこまでも霊である。基準は霊である。霊のための体。「霊主体従」。
これは、大本の提唱する在り方である以前に、実はほとんど誰もが自然にそう思っている「あたりまえのこと」でもあると思う。つまり、皆、自分が本当に心底から善いと思うことをしたいのだ。どこに、そうじゃない人がいるだろうか?
「ひたすらに 神にしたがふ現身の その歓喜は底ひ知られじ」
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