(天祥地瑞)剣槍の雨


 調子のよいときは、祝詞や神号を唱え続ける。一日に何百回も行う時もある。時じくの祈りと鎮魂なくして、真の「我」を発揮することはできない。これは、肉体としての「吾」として気を付けるべきほとんど唯一のことなのかもしれない。宗教思想的に言うならば、他力であり同時に自力である。

 しかし、それほど大切なことすらも、いつしかスッカリと忘れてしまう。メモ(To Do リスト)に常時にすることとして書いてみても、忘れる。本当に忘れるということは、それを忘れていることにすら気付かない状態だからだ。 加えて、「吾」が単に行動の義務として祝詞を唱えたところで、それはひとつの「型」に過ぎないだろう。それは、祈りの本質から最も遠いものかもしれない。

 対して「我」としての時じくの祈りは、より巧妙に日常の喧騒に紛れて忘れてしまう。油断すると「ただ単に心を込めて祝詞を唱える」ようなことになってしまう。これを忘れないためのハウツーなどはないし、ムダなことなのかもしれない。恐らく、忘れないようになれば、忘れないようになるという類のものだろう。
 ただ、体験的に分かったことがある。鎮魂さえできているのなら、まず忘れることはないということだ。上田と下田の感応は身体的なものでもあるためだろうか。
 それは、忘れない…というよりは、常に「(祈り続けていることを)感じ続けられる」といった方が良いか。
 すなわち、常住坐臥の祈りとなる。

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