怒りが「根本的に」消えるとき

 今朝「感謝祈願詞」を奏上している時に、怒りが消えた。その後の「信仰覚書」拝読でも繋がっている部分があった。そこでの体験について書いてみる。

 〇朝拝時に怒りが消えたことの振り返り

 怒りが消えたというが、消そうとして祈ったわけではない(毎日の朝拝である)。考えて自分を納得させたわけでもない。達観したわけでもない。そもそもその事が頭にあったわけでもないのに、一瞬だけそのことが浮かび、根本的に怒りが消えた。

 怒りはどう消えたか?言葉にするなら、その人なりにそういう状態になってしまうやむを得ない環境にあったことが直感的かつ納得的に感じられた。その途端に、根本的に怒りは消えた。この間は恐らくは1秒足らずの事だった。

 これまではどうだったか?怒りを消すことを目的に祈った記憶はないが、結果的に怒りが消えてしまうことは多々あったように思う。スーッとある瞬間に根本的に消えてしまうのだ。そして、白か黒かで考えていたのに対して、全く異質の黄色の考えが出るような事が多かった。

 根本的に怒りが消えるとはどういうことか?一言でいえば、我慢がないということだ。自分を抑える必要もない。自然体で怒りを感じないということだ。怒りは、自分の価値観からみてどうしても許容できない場合に感じるともいえるだろう。その時、現実的な折り合いを付けるために一部分を譲ったとする。この場合には、どこか我慢が残る。例えば「多様性」とか「みんな違って、みんな良い」などの言葉の力で抑えたとしても、本心からは納得できていないだろう。そうではなく、全く消えてしまうのだ。

 こうして、朝拝後からは、もうこの件については自分の中には怒りも我慢もなく、自然体で気持ちよくその人と接することができるようになった。むしろ、そうなってしまう環境を改善することを積極的に話し合えるようになりそうだ。

 〇拝読(信仰覚書第八巻p58-)からの省察

 今朝の拝読箇所では、この怒りが消える件とも関連しそうな部分が二つあった。
 「身魂の善悪と、行為の善悪とを混同してはならぬ」
 「『自分はこう思う』ということは言っても良いが、『自分の言っていることは間違いない』というようなことを言ってはならぬ。
  世界は広く、自分は小さいんだから。

 一つ目。確かに、行為は行為として、考えたいものだ。それをすぐに全人格と結びつけてしまうから混乱するのだ。同じ人でもいろいろな状態があることは、自分のことを考えるならよく分かる。「ついあの時は言い過ぎちゃったな…」などということは、誰しも覚えがあることだろう。
 そのくせ、そこを指摘されると「そんな一回限りのことにこだわって指摘してくるあいつはけしからん」などと怒ってしまいがちだ。ましてや、相手の一回限りの言動を許せないのであれば、単に「俺はやってよいけど、相手からやられたら許さない」と言っているようなものだ。

 教義的な方面に展開するなら「そもそも、なぜそういうことが起こるのか?」「そうならないようにするには、どうしたらよいのか?」という話になっていくだろう。これについては追々拝読日記を付けている間に自然と示されていくだろう。

 二つ目。こういう部分は、ここ数年で実感的に感じられるようになったように思う。実際には、かなりの部分間違いなく言えるような正誤のあることもある。が、普通はそんなことは重要な問題にはならない。人間社会において重要で意見が分かれがちなイシューの大半は、正解や答えではなく、意見があるだけのものが多い。

 

コメント

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